片道書簡のラブレター

大切な人を思い浮かべながら手紙を書きます。

時間表

私の今までの人生に登場していた人物が一人、また一人と逝ってしまう。身近な人が亡くなった時、亡き父は、順繰りだ、とつぶやいていたっけ。年齢が高い人から順番に亡くなっていくんだという意味。去年母が亡くなったころ、小学校高学年の頃お世話になった担任の先生が亡くなっていた。毎年年賀状のやり取りだけ続いていた。

その先生は教育熱心な方で、いろいろなメソッドを考えて生徒たちに実行させていた。例えば時間表というファイルを作らせた。ガリ版でわら半紙(漂白していない茶色の安価な再生紙)に1週間の空白スケジュール枠が刷ってある。毎週のスケジュール管理を子供たちに意識させる。1日のスケジュールは時間ごとの枠になっていてそこに各々の生徒は自分のこれからやることを埋めていく。私は自由時間とか勉強とか食事とか寝るとかまるで授業の時間割のような決まりきった内容を書いていたのがいかにも残念。もう少し具体的に面白く活用できる方法を見つけきれなかった。

社会人になってからはスケジュールを決めていくのは習慣になっている。今1週間タイプのスケジュール手帳を好むのはあの時の習慣からかもしれない。スケジュールに書き込むときに、先生のわら半紙の厚いファイルの時間表を思い出す。

この1年の行動は1週間のパターンがほぼ同じような予定リズムになっている。マンネリにならないよう行動パターンを変えてみよう。ピウプより。

海外旅行へのハードル

急に慌ただしくなってしまった昨日。夫が香港でコロナ陽性反応が出てしまい帰国できなくなってしまった。隔離期間はホテルに缶詰めになる。航空券の解約と変更手続き、保険会社への連絡、その他もろもろのリスケジュール。PCは持って行かなかったので、私が日本からバックアップしなければならない。想定が甘かったのかもしれないが、なってしまったら、なるようにしかならない。お仕事のように片付けるしかない。

だいぶコロナによる海外渡航へのハードルが低くなってきたものの、日本国を出るにもアプリに接種情報登録の準備、渡航先の国の健康管理アプリの事前登録やら、渡航後の検査管理など面倒臭いことが多い。そこまでして行きたいのかどうか考えると、旅行目的ではなるべくコロナ以前の感覚で行ける国が良い。この2年コロナや戦争で物理的にも心理的にも透明なシェルターに入っている感覚。

面倒なことを覚悟で行くのであればそれも面白い体験となるのかも。

コロナによる検疫の感度はだんだん緩くなってきてはいるけれど、情報が刻一刻変わるので新鮮な情報を確保するのが肝心。何やってんだか。。。ピウプより。

秋の夜長に。

最近本を読んでいない。ネフリのドラマやドキュメンタリーばかり見てしまい、時間をただ浪費しているようにも感じる。本を夢中になって読めなくなってしまったのだろうか。昔はいろいろな本を読んで夢中になって感動していた。感受性も年齢とともに鈍感さを増しているのだろうか。。悔しい。十代の終わりには絵画・彫刻あらゆる展覧会に行き影響され感動で興奮していた。お芝居やパフォーマンスをみて1か月ぐらい知恵熱気味になったり。感動のキャパシティが無茶苦茶大きかったのだろう。

今?感動はするけれど冷静だ。若いころのように騒がない分吸収されていないのかな、とも思う。だから若い時にお金がなくてもバックパッカーやったり、映画を手当たり次第見まくったり、自分の感動の可能性にチャレンジできたことは感性の蓄積になったと思う。またあの時感じたことが今ではまた違った側面で感じることができるのも人生の遠近法だな、と思う。また20代ごろ読んだ本を読み返してみようか、秋の夜長に。

練り切り 和菓子


あなたには面白い本や漫画を紹介してもらったし、お芝居の楽しさを教わったよ。あなたに会わなかったらパフォーマンスアートの面白さを知らずじまいだった。ありがとう。ピウプより。

社会から受け入れられる事

自分を偽ざる得ないときそれを続けなくてはならないときはあると思う。特に社会から受け入れられるためには。先日NHK番組で中高年LGBTQのドキュメンタリーを観た。共感できる内容だった。世間の目、親戚の目、親家族の為に形にはまった生き方を選ばざるを得なかった方たちが、中高年になってもう一度自由に、自分を生き直したいと実行していく。世間はLGBTQの存在を認識しながらも、実際は現実の社会運営のためにその在り方をあるがままには受け入れてくれはしない。

中高年になってくると、多かれ少なかれだれでも自分の本来からズレてくる事を感じる。体も心も。その歪みにさえ気づかなくなっている時もある。はて、と思う。それまで自覚しながらも無理やり自分を押し込んで自分を隠しながら過ごすなんて何という拷問だろうか。家族の人も友達も、そしてなによりも自分自身がもう許したっていいじゃない。50-60代になってあとの残りの時間は、周りの為ではなく自分のための自分にしたいとおもうのは当然だろう。

このドキュメンタリーに出てきたたちは自分の誇りと自信のために一つ一つ勇気を出して実行している。すべてが完全に解決できなくても自分を回復させるために。

世の中が偏見のない、共存共栄で調和した美しい世界が一滴でも増えていくよう、偽らない自分を鍛えたい。ピウプより。

穏やかな一日

今日は特筆すべきことは何もない平らな日だった。いや自分の為に酵素風呂へ入りに巣鴨へ行った。だんだん気温が下がって来たけれど穏やかな秋晴れの日。こんな日は酵素風呂がぴったりだ。ふかふかのヒノキのおがくずと糠のブレンドでぬくぬくとした温かさだけれども実際の温度は70度ぐらいあるというらしい。サウナに入るよりもとてもマイルドでじんわりと温まっていく。夏の暑い日には酵素も活発でそんなに長く入っていられないが、大概は15分、今日はいつもより2-3分多めに入らせてもらった。汗をかいている感覚はまるでないのだけれど上がるとびっしょり汗をかいているので驚きだ。お肌も糠のお陰で滑らかに気持ち良い。

お水やお茶をタップリとって外に出ると空気が心地よい。今日一日温かな体で居られる。帰りがけ、巣鴨地蔵通り商店街入り口あたりにある眞性寺六地蔵尊の菊祭りによって行く。美しい形の菊が参道にならんでいる。ジャンボサイズの笠を被ったお地蔵様に今日も自分の心と健康な体に感謝し手を合わせた。

良きこと菊

自分を喜ばせるためにいろいろ試行錯誤しているよ。何をすれば元気になるか、夢中になれるか、また3歳児からやり直し。 ピウプより。

 

 

クリスマスまでに感動したい本

秋の夕暮れはさみしさが募る。悲しいことを思い出して悲観的になってしまったり、昔の思い出に浸ってしまったりそんな季節なのだろうか。もう11月に入って早くも年末モードの街。クリスマスツリーのディスプレイやイルミネーションが早々と飾られている。

こんなクリスマスにかけた年末にしっくりくる短編小説、トルーマン・カポーティのクリスマスの思い出。トルーマン・カポーティが書いた小説とは知らず、最初に知ったのは山岸涼子さんの漫画で彼女の絵のタッチと物語がとてもよく合っていた。この小説にはビジュアルのイメージを添えるととても引き立つ。のちに村上春樹さんの訳で出版された本も山本容子さんの版画が挿絵があった。カポーティー自身の身の上話でもあるようだ。カポーティは子供の頃家族の縁が薄く、預けられた親戚の家では肩身の狭い思いをしたようだが、親戚の家にもう一人いじましく居候する年の離れた女性との交流を面白可笑しくそしてしんみり寂しく書かれた小説。そしてその肩身の狭い居候コンビにとっての特別なクリスマスに感動してしまう。

またクリスマスがやってくる。久しぶりにあの小説を読んでみよう。

カポーティの伝記映画を観た。フィリップ・シーモアという俳優がそっくりに演じていてアカデミー主演男優賞を取った。 ピウプより。

ハムン冷麺

冷麺といったら韓国のハムン冷麺。そば粉で作ったシコシコの長ーい麺。ソウルにはそんな冷麺専門店がいくつも有る。日本だって韓国料理店はそこかしこに有るけれど冷麺専門となると、あの味を体験するには韓国に行かなければならない。

極寒の韓国冬、冷麺を食べるのは日常だ。店内は大きなストーブでトロピカル状態。まずはステンレスのコップ(昔の歯医者さんで見かけてた形の)に熱々の牛骨スープが出てくる。さっぱりとしているけれど出汁が深い味で沁みてくる。ステンレスのボールに入った冷麺がほどなくやってくる。シャリシャリのかき氷がうっすらと溶けたスープに、キリッと丸くまとまった麺はほぐれず島のように浮いている。キュウリの千切りとゆで卵、梨の千切りが麺の上に彩られている。キムチは後乗せで調整。ここでさあ食べようと急いではならない。麺が想像するよりも長ーく、こしの強ーい麺なので、のざえ易く,酸味もあるのでむせ易い。そこで空かさず店員さんがハサミをもってやってくる。ボールにはさみを突っ込んで麺をチョキチョキ切ってくれる。慌てず急がず観光客対応のいつもの風景。冷たいスープは水キムチの酸っぱいつけ汁が入っておりさっぱりとしているので、韓国の濃厚なキムチが引き立つ。

こんな文章を書いているうちに冷麺食べに行きたくなってくる。

大久保に探せば本格冷麺を食べさせてくれるところあるかしら?シンプルな一品だからこそ麺やスープに手間がいる料理。 ピウプより。