片道書簡のラブレター

大切な人を思い浮かべながら手紙を書きます。

衰える老人の微かな光

施設に入った98歳の伯母を訪ねた。伯母はいつも笑顔で迎えてくれる。月に1度ぐらいは顔を出すようにしているが、会う度に少しづつ衰えていくのを感じる。何かが急にできなくなるというよりは、生きることに対する関心が薄れていくような衰え方だ。亡き母の時も一日一日微かに、少しづつ着実に小さな灯が消えていくのを感じていた。

横になる時間が増えて、活動も少なくなって、電池が消耗してしまったスマホのように、充電時間が増えていく。悲しい気持ちもしてしまうが、伯母に元気を求めるのも酷な事だと思いなおす。何か元気づけになる事がないだろうか、とついつい考えてしまうのは自分のエゴなのかもしれない。持って行った佃煮に少し関心を持ったようで味見したい、というので一つかみ手のひらに乗せてあげた。そんなほんの少しの意欲だけでも私には嬉しく感じた。もう横になりたいというので私もしばらくしたらお暇することを告げた。

ほんの少しの間でも傍に誰かが存在する事だけで彼女は十分満足なのだろうと思う。

 

料理がうまくいかなかった日

新玉ねぎのスープストックを使ってグラタンを作ることにした。マカロニを茹でて、ホワイトソースを作り、鶏肉やマッシュルームを炒めてスープストックを注ぎ、ホワイトソースとマカロニを一緒に和えてひと煮たちさせる。グラタン皿によそってチーズを振りかけトースターで火をいれてこんがりさせる。

一口食べて不味いことが判った。不味すぎる。夫も何も言わずにほとんど残してしまった。よくこんなに不味いものが作れるのか自分でも感心してしまうぐらいである。こういう事が私にはよく起こることなのでいつも何が欠けているのかを分析しているのだが、たぶん大きな原因の一つは大雑把さ、適当さというところだろうということは分かっている。それにしても美味しくないまでも不味くはない、というあたりに留めたいのだが。

不味いものでも自分で作った責任であるし、食べ物を無駄には出来ないのが昭和生まれの私のポリシーだ。そんな時にはまってしまうのは、不味かった料理を再生させるために追加加工をしてしまい、美味しくなるどころか不味いものの量を倍加させてしまうという罠だ。気を付けなければならない。

料理がうまくいった日

新玉ねぎが安くて手に入ったので玉ねぎスープのスープストックを作り、小分けにして冷凍庫に収納した。玉ねぎと塩、わずかな水だけで作ったスープは濃い新玉ねぎの甘味を味わうことが出来る。

今朝はこのスープストックにトマト、ニンジン、ズッキーニ、カブ、サツマイモをサイコロに切って野菜スープを作った。野菜だけのスープだけれど各々の野菜の微細な味がスープに染みて、朝のお目覚めの胃袋にもうってつけの旨味だ。なによりも新玉ねぎのベースがほかの野菜を美味しく引き立ててくれている。もう少しトマト多めで細かいパスタを入れればミネストローネになるし、マッシャーでピューレにして牛乳をくわえればポタージュスープに変身する。

料理下手な私でもスープストック東京のスープより美味しく作ることが出来た。スープがあればバランスの取れた食事になるし、作り替えて変化させれば飽きずに食べられる。簡単に作れて身体にも安心な材料で美味しく出来るのなら出来るだけ自炊にしたい。

あまい一日

履き慣れないミュールを履いて1日歩き回っていたら腰が痛くなってしまった。そのせいかどうか根拠はないが、それ以外に何かめぼしい原因が見あたらない。おしゃれも大切だけれど足元の安定性はもっと大切だ。歩行量の多い日は履き慣れた靴履きやすい靴を履いて正しく歩かなければ。

腰が痛くてヨガのクラスはしばらく休むことにした。そんな時こそ、溜まっていたあれやこれやがいくらでもあるというのにダラダラしてしまう。その上、ケーキまで食べたくなってきてしまった。腰が痛くて憂鬱なのでこんな時は自分を甘やかしてやることにする。

気になるケーキ屋さんがある。プリンセスタルトという名前のケーキ屋さんで若い女の子たちが長い列をいつも作っている。カラフルで店内にはフルーツがいっぱい乗っていてキラキラしているケーキがスラッと並んでいる。売り子さんもキラキラして可愛い女の子だ。お店にはひっきりなしに人が入ってきて、ケーキはどんどん売れていく。安いケーキでもないのにこんなに売れるケーキ屋さんを見た事が無い。売れまくるケーキは何が違うのだろうか?

夢見る頃を過ぎても

もう50年昔に、弟はカトリック教会の幼稚園に通っていた。園長先生はイタリア人の神父様だったので、幼稚園からイタリアの文化などを紹介する会報を毎月貰った。その冊子にはイタリア料理の紹介が掲載されていて私は子供ながら楽しみにしていた。なぜなら当時の日本ではイタリア料理と言ってもケチャップのナポリタンぐらいしか思いつかない時代。イタリアの食事などは遠い未知の世界でだった。

あるとき、『スパゲッティカルボナーラの作り方』というのが載っていて、その作り方からは全く味が想像つかなかったが、『イタリアのどこそこでは定番のお母さんの味』という記述がいかにも美味しそうで、いつか大人になったら必ずスパゲッティカルボナーラを食べようと夢見ていた。カルボナーラが日本で一般的に広まったのはいつの頃だろうか?

大人になってスパゲッティカルボナーラがいつでも食べられるようになったら、とりわけ食べたい料理ではなくなってしまった。子供の頃夢見ていた、あの美味しいスパゲッティカルボナーラはもう食べられない。

 



新陳代謝の激しい街:渋谷

渋谷のパルコから渋谷の駅に向かってスペイン坂を下り渋谷センター街を通って行った。ほとんど用のないエリアだったので何十年ぶりのルートだったせいか、渋谷全体が外国人の多さに目がくらむような気分を味わった。

この辺りのエリアは外国人の人口密度がかなり凝縮しているのではないだろうか。日本人と外国人が半々ぐらい、店舗によってはむしろ外国人向けの店が多いような気もする。それだけ日本の円安影響の大きさをヒシと感じる。

飲食店もバーガーショップやステーキショップが多く、外国人観光客がいっぱい入っている。日本に来てハンバーガーやステーキか…とも思うがその方がわかりやすく安心して食べられる人もいるのだろう。渋谷あたりは外国人観光客向けのお店を作る方が商売がうまくいくのかもしれない。アニメキャラクターのグッズ店などは特に海外の人が殺到している様子であった。

昔、原宿方面に向かうJR山手線沿いに宮下公園があってホームレスのたまり場のようなテント村になっていたが、この20年間で再開発されて洗練された商業モールになった。渋谷から表参道、原宿へと外国人観光客の買い物を充実させるエリアが広がっていく。

渋谷という街はこれからも、猛烈な新陳代謝で見知らぬ街に姿を変えていくのだろう。

小説を聴く

今更ながらドフトエフスキーの罪と罰を読み始めている。正確に言えば読むというより、 Audible というサブスクの聞き放題で聞読している。主に移動時間、電車の中で窓の外の景色を見ながら小説を聞くのが好きだ。このところ、Audible の読み放題でどんどん試し聞きして途中で飽きてしまったら、もうその本は聞くのを止めてしまう。そしてまた次の新しい本を見つけて聞き始める。聞き放題の贅沢で、全部を聞いてしまわなくても良い気軽さがある。本を買ってしまうと面白くなくても全部読まないと損をしたような気分になるから。

小説を耳で聞いていて、なんとなく昔の記憶が思い起こされた。それは子供の時に母や父に布団の中で読んでもらった事、その情景だ。寝る前に本を持って行って、これを読んでと何度もせがんで、私が寝るまで母は本を読んでくれたものだ。その声の心地よさがこの Audible にも感じられるような気がする。

人から読んでもらう本というのは何か人間的な温かみを感じる。自分で目で読んでいくのとは違って、他者の声でその本の内容を聞くと温度が感じられる。この感覚は自分で読んで得るものとは違う感覚なのだ。朗読はプロフェッショナルの方なので言葉のメリハリが聞きやすく、邪魔にならない抑揚のバランスなので耳に心地よい。小説の朗読というのはAudible に一番向いている。