片道書簡のラブレター

大切な人を思い浮かべながら手紙を書きます。

ジャスト・サイズ

餃子の王将で便利だと思うのはジャストサイズというメニューがあること。

例えば酢豚や回鍋肉、エビチリなどの定番メニューが小皿で提供している。

二人でご飯と4種類のジャストサイズを注文すれば彩りのよい食事ができる。

普段の中華料理店では2人分の胃袋の許容量で多種の中華料理を注文するのは二品が限界。

二品で十分なのだが食い意地が張っているので寂しいような気がする。

中華料理はどうしても大皿料理をあの丸いグルグル回るテーブルに並べて5-

6人で取り分けるというのが基本のお料理。

中華料理を二人だけなら麺類か飯類一品づつ食べて満腹になる。

横浜中華街ではフランス料理のように前菜から始まって少しづつ料理を出していくようなコース料理のメニューがあるけれど、やはり中華料理はダイナミックに大皿から湯気の立つ料理をみんなで取り分けて食べるほうが美味しい。

中華料理のシェフはグループの人数が多ければ多いほど料理の腕を振るってくれるらしい。

食べたいものを食べられる環境と身体があることに感謝。ピウプより。

スープの似合う季節

スープが似合う季節になった。

寒い日のスープは一際美味しく感じられる。

そんな日のスープは一口目は五臓六腑に染み渡り、無心になって飲み干す。

今日のスープはオニオンスープ。

ロイヤルホストで食べたオニオングラタンスープが美味しくて自分で作って思い存分に食べてみたくなったから。

ロイヤルホストといえばオニオングラタンスープ。

トロトロのオニオンに浸したスライスのバケットの上にチーズが溶けて舌が火傷しそうなくらい熱々で供される。

小さなグラタン皿なのでスプーンで5口ぐらいで終わってしまうのが物足りないのだけれど、もっと欲しいな、位の量が最高に美味しいのだ。

材料は玉ねぎとバターと塩と水だけのシンプルに徹することがオニオンスープの肝。

大量の玉ねぎのスライスをバターで時間を掛けて炒め、水は遠慮しながら入れて行く。

余計な事は何もしなくて良くこれだけで玉ねぎエキスたっぷりのスープが出来上がり。

 

 

パンを浸しても良し、ご飯を入れてリゾットにしても良し、たくさん作っておくと色々味変で飽きずに食べれるスープ。ピウプより。

お釈迦様が修行を終えて

今年最後の坐禅会に行った。

インバウンドのせいか海外からの方も多くなってきたように感じる。

お寺に多様な人が集まってくるのは喜ばしい。

お釈迦様が悟りを開かれた日、成道会(じょうどうえ)が12月8日。

本堂御本尊にはお釈迦様が山から降りてこられたお姿の掛け軸が掲げられていた。

ボロボロな袈裟に素足で、おヒゲや髪の毛は伸びたまま痩せこけてしまったお姿。

仏教はインド方面からやって来たのでお釈迦様はインド人特有の目力の強い濃い顔立ちであったろうけれど、日本で描かれるお釈迦様は切れ長の東洋系のお顔。

坐禅を組む広間には達磨大使の掛け軸が掛かっていた。

達磨様は坐禅が大好きで好きすぎて、洞窟でずーっと坐禅を組みすぎて足が萎えてしまったと聞く。

瞑想に打ち込み過ぎて命を落とす人も数しれずいたのだろう。

もう一つの掛け軸は無一物という書。

すべての執着を剝ぎ取って身一つになる修行のような言葉。

そんなことをずっと考えながら坐禅を組んだ。

私が何も考えないことを考えられる日に近づけるだろうか?

 

坐禅会には沢山の人が集まっていても一言も喋らず、意識の方向は自分自身に向けられる。ピウプより。

韓国の感情表現

また韓国ドラマ漬けになってしまった。

ドラマを観る時間は1時間までと決めていたが、気づけば3時間ぐらい見続けてしまうのは中毒症状が出始めている。

ドラマ作りが本当に上手い、と思う。

今回ハマっているのはAmazonプライム財閥家の末息子という。

タイムトラベル、財閥、復讐、交通事故とお決まりのテーマが韓国ドラマのリテラシーの高いドラマファンに取って王道ストーリー展開だ。

アイドル系のヒロイン・ヒーローでも、脇役の演技の

このドラマは80~90年代の韓国政治・経済史が俯瞰できる内容で興味深い。

韓国はそもそもドラマチックな政治と場所の運命を持っている。

ドラマチックな、などと行ったら失礼なのかもしれない。

そこに生きる人にとってはたまったものでは無いだろうから。

そのせいか韓国人の感情爆発の激しさ、本音のダダ漏れの激しさが日本のドラマにない韓国独特の表現になっている。

ほとんど外見的に見分けがつかないお隣の国の人たちなのだけれど、ハッキリとした言葉の感情表現は全く違っている。

 

このドラマでは韓国の80年代から現在までの実際の事件を絡めてあるので韓国を知るのに勉強になる。ピウプより。

 

 

蚕子姫と養蚕の記憶

小さかった頃、寝る前に親に本をよんでもらうのが楽しみだった。

今でも覚えているのは蚕子姫という起承転結のないお話でお転婆なお姫様の遊び相手は蚕子だったというそんなお話。

イモムシみたいなお蚕さんを大切に可愛がるお姫様が不思議だった。

 

私の両親は茨城県の出身で昔の関東平野は養蚕のために桑畑ばかりだったようだ。

父方の祖父は繭市場の相場師だったと聞いている。

父が小さな頃はお蚕さんはおもちゃで養蚕農家の小屋からお蚕さんを一匹拝借してポケットにいれていたという。

お蚕さんの住む小屋からはひねもす、桑の葉を食べるお蚕さんのサクサクという元気の良い音が聞こえてくるらしい。

絹を造るお蚕さんだけあってポッケに入れたお蚕さんのその肌は滑らかで柔らかく気持ちが良かったと父は言っていた。

お蚕さんは慎重に丁寧に育てられ、フレッシュな桑の葉をたっぷり食べて糸を吐きながら繭になる。

母の地域ではお蚕さんのことをお子様と呼んでそれはそれは大切にされていたと言う。

蚕子姫はそんなお蚕さんの分身のようなお姫様だったのだろう。

 

養蚕業はほとんど廃れて桑畑はなかなか見つけることができない。ピウプより。

気付かない偏食

最近一日の時間のうちに考えていることで食事をどうしようかという事が1番多い。

仕事や介護などで目一杯の頃は食事の事など考える時間も準備する時間も惜しんでいたので、ほとんどがテイクアウトや外食だったが、自炊の出来る時間が出来た今は体に良い物を計画的に作るようにしようとしている。

料理が上手いか、美味しいかは別として体には必要で良質なものを。

加工食品は緊急時や時短には便利な食べ物だけれど、日常使いになってしまうのは体に良くない。

忙しい時を思い返すと体に良いとは言えない栄養バランスの悪い食事ばかりだった。

得てして外食、加工食品は味が濃いのと脂が多いし、添加物も何かしら確実に入っている。

便利さというのは何かしら代償があって、その代償をよくよく考えながら利用しないといつか来るツケは大きい。

 

ポテトチップやソーセージだけの偏食を続けてきた17歳の英国人男性が失明してしまったというニュースを見た。

極端な例だが、偏食していることが気付けないことは誰にでも、私にでもあることだと思った。

 

体に良いと言われるものでも同じ物を続けて食べれば偏食。ピウプより。

自分をリフォームする

ここ数年今までの人生の中では1番ストレスの少ない、自由な生活を送っている。

朝は起きたいときに起きて、食べたいときに食べて、行きたい所に行き、やってみたいことがあればお小遣いの範囲で行うことができる。

体も日常生活上問題なく動くし、ご飯も毎日美味しく食べることができる。

自堕落に生きようが、一生懸命に生きようが誰からも文句はないし迷惑を掛けることもない。

自分を心配しなければならないのは自分自身だけ。

今まで出来なかったことをあれこれ始めて、自分の身辺整理をし、凝り固まった執着を捨てて、もう一度自分を創り直したいと思っている。

常識というものは絶えず更新されているので、長く生きている人間は意識していないといつの間にか時間の止まったままの人間になってしまう。

そうならないように固くなった体や頭をほぐして、すこしでも伸びしろのスペースを準備しておこうと心がける。

今、学ぶべき師は子どものような心も体も柔らかいひと。



赤ちゃん先生と幼児教授、小学生師匠。ピウプより。