片道書簡のラブレター

大切な人を思い浮かべながら手紙を書きます。

国語のテスト

小学生の5~6年生ぐらいから中学生ぐらいのあいだにムクムクと自分の核ができるようになる。

惰性で教師になってしまったような先生の授業はつまらなく、先生も生徒もお互いに時間を潰しているだけだ。

気の利く要領の良い生徒は自分で学ぶのか塾で学ぶのかよい成績をとる。

確かにテストで良い点を取って授業に出席していれば成績はよくなるのだけれど、その先それだけで評価を積み続けられるのだろうか?

成績表の評価にもう一つ二つスパイスが必要だ。

それは授業に対する解釈の仕方、先生が突っ込みだったら生徒はボケでもよい。

正解であるかないかというよりも考え方自体、思考回路に評価があってもよいのではないだろうか?

 

中学の頃国語のテストを憎悪した。

文章読解で作者の意図を解釈していくテストは特に苛立った。

文芸作品の読解に正解などを作らないでほしいと思った。

結局は先生の価値観に合わせるように回答を書くことが正解なので、生徒も平社員みたいなものだ。

それだったらむしろ国語は文学作品ではなくビジネスレターの裃を付けた文章でも読解したほうが余程実用的だ。

 

 

子供の頃の先生との巡り会わせも重要な人間関係。できるだけ多様な考えの先生に触れることがリスクヘッジだ。ピウプより。