片道書簡のラブレター

大切な人を思い浮かべながら手紙を書きます。

坐禅をする。

月一回の坐禅に行く。

朝早く人気のない道をひとりトコトコあるく。

朝の空気は美味しく透き通っている。

お寺の門に坐禅をする人達がずんずん吸い込ま

れていく。

誰も無言で、堂内は背中を向けてすでに座って

いるひともいる。

決められた場所を歩いて決められた場所に座

る。

時間が来ると木版、そして鐘が鳴り坐禅の始ま

り始まり。

 

1烓目(いっちゅうめ=お線香1本分の時間)

はまだ余力がある。

終わりの合図でハッとする。足のしびれを確か

めて立つ。

整列して皆で半歩ずつゆっくりと歩く経行とい

う行いを静かに、次の合図まで。

そこで開放。

 

2烓目は警策(きょうさく=肩を叩く)が巡回

してくるので、励みになる。

隣の方が受けられているあたりで合掌、いった

ん肩に軽く当てて頂いたあと、

左の肩と頭を近づけると、本番の叩きがやって

くる。

同じように、坐禅終わりの合図にハッとする。

また経行を行い、解放。

 

3烓目が一番難しい。何も考えない何もしない

ことがこんなに辛くなってくるとは。

体がぐらつく、睡魔もやってくる、いろいろな

考えが浮かびあがって引っ込まない。

すると突然救いのような合図の鐘の音と木版を

叩く音が、鋭く清々しく響きわたる。

最後は般若心経を合唱して、お堂の今月の掛け

軸の解釈を頂き、和尚様のお言葉。

 

今月も脳内のおかたずけができてスッキリ広々

と考えることができそうだ。

 

人がたくさん集まっても誰一人口を開く人は

いない。

たまに初めての人でおしゃべりしてしまう女性

がいても、自然口をつむぐ。

喋らないことが気持ちよい空間。ピウプより。

 

 

 

自炊の醍醐味。

冷蔵庫の食材は無駄にせず使い切りたい。

うーん卵の消費期限だ、ゆで卵にしておこう。

たくさんあるので煮卵も。

おじゃがから芽がでてきた、卵と一緒に茹でち

まえ。

レタスが古いよ、バナナと一緒にスムージー

だ。

山盛りきゅうりを消費したいな、スライスして

塩して冷凍だ。

 

買い物に行く前に、まずは冷蔵庫で消費したい

食材の入った献立を考えておく。

作ったオカズはなるべく食べきりにしたいので

少なめに作りたい。

それでも食材は、特に野菜は残るので次の日の

メニューへ。

そうやって、余った食材しりとりのようなメニ

ューを毎日作る。

だから自炊はレストランと違って昨日と今日の

メニューはリンクしているのだ。

 

そんなことをしていると、どうしても材料が足

りない、人数分の量がたりないとか、

そんな時思いっ切り舵を切って、違う料理にし

てしまう。

新しいレシピができるか、物凄くまずい料理に

なるか、賭けである。

なにかが足りているより、あと少し足りないほ

うが、刺激的でしょ。

足りない何かをどうするのか工夫をして完成さ

せるほうが、

思いがけない新しいもの、付加価値がつくよう

な。



レシピって私にとって面倒なやつ。

量を計って作る料理は苦手なのでレシピはザッ

クリ目を通して手順だけ

心に留めておく程度。

面倒な調味料が必要な料理はレストランで

食すほうがいいな。ピウプより。

 

 

一日の時間の中で。

一日の時間帯で何処が一番好き?

私はまだ太陽が上がってこないぐらいの早朝が

一番好き。

誰もいない朝、信号機は動いていても車は走っ

ていない。

私ひとり、地球に残された人類のような気分。

それでもじんわりと明るくなって、さあこれか

ら今日が始まる!って、そんな気分。

 

午前中は集中力があるけれど、その後は下降線

で、頭の働きもやや劣る。

午後は弛緩タイム。

睡魔が何度も襲ってきそうなので昼食はできる

だけ軽めか、取らない。

この間延びした午後の時間は好きになれない。

 

夕方、魔の刻。みな何となくせわしなく家路を

急ぐ人、スーパーに活気がでて、

お家に帰る子供たち、ごはんを作る音や匂い。

空は黄昏、時間が刻々と変化して行く。寂しく

も、美しい時間帯。

 

夜、都会の夜は明るいけれど、自然の夜は闇が

ある。

多くの人たちが眠りにつく時間は静かで、一人

内観に浸る。

今日会ったひとのこと、今日有った良いこと、

思いに耽る。

そんな時間は2番目に好きな時間。

昔々、父が食事後、寝る前に日本製のウイス

ーを飲んでいた。

飲むか?と言ってワンショットグラスに注いで

くれた。

胸にジーンときて、ウイスキーはこの時間に

飲むものなのだと解ったとさ。ピウプより。

 

 

 

ふるさとの温かい言葉を求めて。

私の母は茨城県の出身で東京に出てからのほう

が長い暮らしだったが、方言を聞くと即答でき

た。国内バイリンガル

雷はなあに? らいさま!

疲れたときはなんていうの?

怖いっていうんだよ、怖いときはおっかねーっ

ていうんだよ。

認知が進んでもふるさとの言葉は忘れなかっ

た。

 

お盆に田舎へ帰ると皆方言での会話になる。

私の理解力は会話がわかるような、たまにわか

らなくなるような、途切れ途切れ。

同い年のいとこが訳してくれていた。

関西の友達はどこへいっても関西弁をしゃべ

る。標準語をしゃべるのは、こそばゆいらし

い。

関西弁は普段から聞きなじみのあるメジャーな

言葉なので違和感はない。

 

熊本でローカルバスの運転手さんに行き先を尋

ねたところ、全く聞き取れず、理解もできず

呆然としていると、詰め入りを着た学生さんが

間に入って通訳してくれた。日本は広いんだ

な~とつくづくしみじみ実感した。

故郷の言葉を持つ人たちが羨ましく感じる。

日本語自体故郷の言葉なのだが。

 

よく外国人で流暢な東北弁を喋れる人がいたけ

れど、大人になってから方言を身に着けるひと

はそうそういないだろう。

私が酔狂で学びたいとしたら広島弁

仁義なき戦い菅原文太さんのようにかっこよ

く決めてみたいのが夢。

山守さん弾はまだ残っているがよう。

ピウプより。

 

 

射幸心よりも誰かを幸せにして。

ギャンブルの面白さが解らない。

どうしてギャンブルに興奮できるのか。

勝ち負けにこだわる人、いわゆる負けず嫌いのひとはギャンブルにはまる

要素があるらしい。勝ち負けに熱く集中しちゃう人。

パチンコ、競艇、ボートレース、競馬、競輪、ブラックジャック、ポーカー

ルーレット、スロット、みんな飽きもせず日がな一日、打ち続ける人が大勢いるな、

と感心してしまう。

 

何かに取りつかれているような人たちがギャンブル会場に引き込まれていく。

その方たちは昂奮はしているようでも幸せそうに見えないし、

パチンコ屋さんの近くを通ると負の空気が流れているように感じる。

最近パチンコ屋さんも少なくなったが。。

胴元に寄付するより、助けるべき人に寄付しなさいよ、と言いたいけれど、

自分の射幸心のために打つのだから言葉が通じない。。

 

ギャンブル依存症という病気もあるようだけど、その力強いエネルギーの方向を

違うものに向けたら凄いこと出来るんじゃないかと思う。

誰かのためにもなり、自分自身のためにもなるような自分独自の考えに一生懸命に

夢中になれたらそれは健全な依存=信念になれるのではないかな。

みんなでワイワイカードゲーム

ギャンブルにはまっている人は籠のラットみたいに輪っかをくるくる回し

走り続けている。

ブロイラーの鶏みたいに、せっせと餌をついばんで卵を同元に提供している。

悲しい風景。どうか早く負のスパイラルから出られますように。 ピウプより。

盗作画家に会った日。

むかし、盗作画家の展覧会に行ってきた。

もちろんその時は盗作された作品とは気づかずに。

その画家は権威もあり、知名度もあり、作品も高い価値を持っていた。

 

私はその画家の経歴や作品評価は知らず、友人に誘われていったのだか、

たまたまその画家が展覧会場に居り、会話する機会があった。

一緒に行った友人は美しく会話にも長け、魅力的な女性であったので

分かりやすい下心で近づいてきたその画家が、安っぽく、野暮な人に見え、

まあ作品の評価と作家の人柄の評価は別勘定なのだからな、、と独り言ちた。

 

作品は鮮やかな色合いの半具象+半抽象的な人物と室内のような、都会的なモチーフ

だったように思う。センスのよく、気持ちの良い作品であった。

 

それから半年ぐらい後、盗作が発覚し、週刊誌やニュースで大スキャンダル、

あの時見た作品と本物作家の作品と並べ比べられているではないか!

アッケに取られたような気分というのを初めて味わった。

 

丸パクリの作品にもあっけにとられたが、権威ある組織も見抜けなかったのは

盗作された被害者の画家の知名度が低かったからなのか?

それとも日本のアート界はのんきなのか?。

その画家の作品のファンも私の友人も相当落胆してしまったことだろう。

その盗作画家もその後どうしているのだろうか。。

 

アートの価値はどこで評価されるのか、複雑だ。

作品そのものの価値や人気度も重要だけれど、

どこの美術館のどの作品の隣に飾られたとか、だれが所蔵していたか、

作品の履歴も重要らしい。美とはかけ離れているような。ピウプより。

落ち込んでいる日には。

落ち込んでいる日は、落ち込むことに専念してどっぷりと

どん底まで落ち込んでみる。落ち込むことに前向き(?)か

斜め下向きにしてみる。どこまで落ち込むことができるだろうか。

 

無理して上向きになる必要はないし、暗い自分でいいじゃない。

暗い自分を包み隠さず、正直に堂々と今日は落ち込んでます、話しかけるのを

ご遠慮ください、と言うか札を下げておこう。

 

吹雪のなかでやっと見つけたほっ建て小屋で身を縮めて一夜を過ごす

ような自分のイメージ。雪女に会えそうな場所。

きっと次の日は眩しいほどの太陽が私を照らすだろう。

もしかしたら明後日かもしれないが、いつか必ず。

 

それまでは冬眠動物のように、ゆっくりと静かに退屈に、できれば

放心で全てを緩ませて過ごそう。

だらしなくていいじゃない。人っ子一人いない、暗いころがいいね。。

 

そのうち春がやってきて、何かモゾモゾと自分の中の謎虫が動き始めて

じっとして居られなくなる。

そうしたらそろそろ一歩二歩、赤ちゃんになったつもりでよろよろと

おっかなびっくり外に出てみよう。

 

待ってる。リスの冬眠から覚めるのを。

よろよろっとしながら出てきたらだいぶ充電できてるんじゃないかな。ピウプより。